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面接室のご紹介

さとう成育心理面接室のご紹介

さとう成育心理面接室のご紹介

当面接室では、学校生活や家庭生活のなかで発達の問題や自己調整の難しさを抱える方を対象にしています。不安や緊張が強く眠れない、友人関係がうまくいかない、勉強や進路のことで悩むといったご相談が多く寄せられています。

特に、発達障害(自閉スペクトラム症〈ASD〉・注意欠如多動症〈ADHD〉など)と診断されている方や、その傾向があると指摘されている方からのご相談も数多く受けています。ただし、診断の有無に関わらず、「発達の特性」や「自己調整の難しさ」に関連する困りごとを出発点にして、一緒に解決方法を考える姿勢を大切にしています。

当面接室では、長年にわたり医療現場でカウンセリングを行ってきた公認心理師が対応します。単に困りごとを軽減するだけではなく、自分自身を理解し、必要なサポートを周囲に伝えられる力(セルフアドボカシー)を育てる支援を重視しています。

「支援されているはずなのに、なぜか苦しい──」

そんな声が、今この時代に少しずつ聞こえてきています

わたしたちは、そうした語りにならない思いにこそ耳を澄ませたい

面接室は、その小さな違和感を受けとめるための場所です

支援とは、制度や配慮だけでは届かない“感情の襞(ひだ)”に触れていくもの

当面接室では、その人の存在が少しずつ輪郭を取り戻していくような時間と関係を、大切にしています

 

【支援のかたちは変わってきた】

さとう成育心理面接室のご紹介

発達障害のある子どもや大人の方々との関わりにおいて、支援アプローチとして、感性や表現を重視する視点が求められています。

かつて、障害とは「治すべきもの」でした。20世紀を通じて長らく主流だったのは、いわゆる医療モデルです。ここでは障害は個人の「欠損」とみなされ、専門家の介入によって矯正・治療されるべき対象とされてきました。

その後、「その人らしさ」を育む視点が登場します。療育モデルは、医療のみに依存せず、発達支援や教育的介入を通して個人の潜在的な力を引き出すアプローチでした。これは、特に子どもの発達支援の現場において、実践と研究の両面から大きな進展をもたらしました。

そして21世紀に入り、社会モデルが注目されるようになります。ここでは「障害」とは、個人の状態そのものではなく、それをめぐる社会の仕組みやまなざしが引き起こす「ズレ」や「つまずき」であるという考え方が中心になります。バリアフリー、インクルーシブ教育、合理的配慮といった言葉に象徴されるように、障害の問題を個人の特性からではなく、社会の受け止め方や制度のあり方から捉え直す視点です。

【社会モデルの限界と新たな視点】

この社会モデルの考え方は現在、多くの教育・福祉現場において「正しい方向」として共有されつつあります。しかし現実には、社会の側が“変わったふり”をしているにすぎない場面もしばしば見受けられます。

ここで言う「変わったふり」とは、制度上はインクルージョンや合理的配慮が整えられているように見えても、実際にはその人自身の表現や参加のあり方が、依然として狭められたままであるという状況を指します。たとえば、障害のある子どもを通常学級に在籍させていても、周囲の教員やクラスメートが本当にその子の「わからなさ」や「感じ方」に向き合う姿勢を持っていなければ、そこには深い孤立が生まれます。形式的に「共に学ぶ」状態が整っていても、心の中では「理解し合えないまま距離を保っている」という現実が続いているのです。

また、「安心」という言葉が用いられる場面でも注意が必要です。支援の場では、「本人にとって安心な環境を提供する」と語られることがありますが、そこでいう「安心」とは、実は「トラブルが起きないように」「周囲に迷惑がかからないように」といった、大人側・支援者側の安心であることが少なくありません。このような発想が支配的になると、「その子が少しでも不安定な様子を見せると、すぐに安全な場所に移す」「無理をさせないことを優先して、挑戦の機会を制限する」といった対応が常態化します。結果として、本人が本来持っている回復力や選ぶ力が発揮される場を奪い、「静かにしていれば安心、変化しなければ平和」という枠組みに押し込められてしまうのです。

さらに、「善意」もまた、無自覚の抑圧となることがあります。「困っているだろう」「こうした方が本人のためだろう」と支援者や周囲が先回りして配慮を行うことによって、本人が自分の困難を語る前に結論が出てしまう。そうなると、違和感を抱いても言葉にできず、「自分の気持ちや考えは、ここでは聞かれない」と学習してしまうことがあります。丁寧な支援のように見えて、実は「相手を対話の主体と見ていない」という点で、関係性を固定し、成長や変化の余地を狭めてしまうのです。

こうした場面の積み重ねが、社会モデルが目指した「社会との関係の再構築」ではなく、“配慮・保護・管理”によって関係性が固定化された世界を生んでしまっているのです。形式としてのインクルージョンが浸透しつつある現在だからこそ、「制度があるから大丈夫」「配慮したつもりだから問題ない」という安心感だけが独り歩きしていないか、自問する必要があります。

私はこのような状況を、あえて“福祉モデル”と呼びたくなります。

支援の現場では、制度や支援者の立場から「守ること」「配慮すること」が大切にされてきました。しかしその善意が強く作用しすぎると、本人が語ったり選んだり、関係性の中で揺らいだりするような「生きた経験」が置き去りになることがあります。

これは、支援の積み重ねそのものを否定するものではありません。むしろ、これまで築かれてきた支援が形式や手順として固定されすぎることによって、思いがけず新たな“行き詰まり”を生んでしまうかもしれない──そんな可能性に静かに気づき直すための表現です。

【日比野克彦氏の発言から見える希望】

こうした現状の中で、東京藝術大学学長・日比野克彦氏の発言は、きわめて革新的です。2025年6月に開催された第133回日本小児精神神経学会学術集会において、彼は次のように語っています。

「社会の中で“つながる”ということが難しくなっている時代に、アートには、分断を乗り越え、“つながりを取り戻す”力がある。障害のある方たちは、すでに“常識”の外で暮らしているかもしれない。だとすれば、そこには新しい価値観や表現の種が眠っている。アートは、合理性ではなく感性でつながるものであり、誰かを“変える”ものではなく、“共に感じる”もの。障害のある人々の表現には、社会を刷新する力が宿っている。」

この発言は、いま主流である社会モデルに対する批判でも称賛でもなく、“跳躍”です。日比野氏は、障害を「制度に照らした状態」ではなく、「感性が発する波」として捉え直し、誰もがその波に触れることで世界と“つながりなおす”可能性を示しました。

【アートの視点がひらく、支援のこれから】

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これは、支援者や制度の役割を「整える者」「守る者」から、「共に揺さぶられ、共に生まれなおす者」へと変えていくラディカルな視点です。つまり、アートモデルとは「共に意味をつくる回路」として障害を捉えなおす新しい地平なのです。

臨床心理学の現場でも、「支援とは制御ではなく共鳴である」という考えは長らく語られてきました。沈黙や断片的な語りにこそ真実が宿ること、関係の中で育つ自己理解、制度に回収されない“あいまいさ”が人の心の本質であること──それらはすでに心理臨床の知として蓄積されています。

日比野氏の発言は、その知をアートの文脈から鮮やかに再提示したものと言えるでしょう。合理性や制度ではなく、「触発」「偶然」「共鳴」によってつながる世界。そこでは、障害のある人が社会に“参加”するのではなく、“世界を再構築する触媒”となるのです。

【この面接室で大切にしていること】

当面接室では、「感性を通じた関係づくり」や「共に意味を紡ぐ姿勢」を、心理面接の重要な柱としています。私たちはこの視点を、便宜的に「アートモデル」と呼んでいます。クライアントの語りにすぐさま意味や方向づけを与えるのではなく、“語りの余白”や“沈黙の濃さ”に共にとどまること。その人の存在そのものが紡ぎ出す“表現のプロセス”を、評価せず、かといって傍観もせず、共にたしかめていく態度。そうした関係性の中にこそ、新たな理解と変化が生まれると信じています。

社会モデルの“次”をつくるのは、
制度ではありません。
それは日々の現場で、
出会いと表現を
媒介にして生まれてくる、
“変化の前兆”なのです。

【参考文献】

日比野克彦(2025)「多様な人がつながる場づくりの実践」第133回日本小児精神神経学会学術集会 シンポジウム1発言より

加藤秀一(2018)『福祉と排除をめぐる現代的地平』岩波書店

齋藤環(2007)『承認をめぐる病』日本評論社

障害者基本法(2011年改正)

Michael Oliver (1983), “Social Work with Disabled People”

【支援する人・される人、そのあいだで問い直す──Q&A】

少し立ち止まり、支援や関係性について私たち自身も問い直してみました。

支援する人・される人、立場を越えて交わされる小さな問いかけに耳を傾けてみてください。
アートモデルをより理解してもらうために
Q&A──支援する人・される人、そのあいだで問い直しましょう。

さとう成育心理面接室のご紹介 Q&A

Q1:制度や支援は整ってきたはずなのに、どうしてまだ「生きづらさ」や「孤立感」が残るのでしょう?

制度や支援はたしかに進化してきました。でも、「安心」はあっても「自分らしく振る舞える自由」や「わかってもらえている実感」が薄いと感じる人もいます。
形式だけが整っていても、わかり合う関係性がなければ孤立が生まれると考えます。私たちが大切にしたいのは、“整っている場”ではなく、“揺れながら一緒に考えられる関係”です。こうした姿勢を、私たちは「アートモデル」として実践しています。

Q2:「あなたのために」と言われているのに、なぜかモヤモヤするのはなぜでしょう?

支援や配慮が、相手の語る機会や選択の余白を奪うことがあります。すべてが“正しい支援”とは限らないのです。
私たちは、“支援とは答えを与えることではなく、問いを共に生きること”であると考えています。そうした考えを「アートモデル」と呼んでいます。語られていないことにとどまり、一緒に考える関係こそが力を持つのです。

Q3:支援って、「制度に則ること」と「人と関わること」、どちらが大事なのでしょう?

どちらか一方ではなく、その“あいだ”にあるものこそが大切です。
私たちの支援の視点は、「制度ではすくいきれない感情や関係の動き」に光を当てることを大切にしています。このような視点を「アートモデル」として紹介しています。制度と関係性を対立させるのではなく、制度の中で関係がどう変わるかを見つめ直すまなざしです。

Q4:「揺らぐ関係」を現場に持ち込むには、どうしたらよいですか?

支援者を「共に揺さぶられ、共に生まれなおす者」と考えてみます。
すぐに整えようとせず、「評価を保留する」「沈黙に耐える」「偶然や想定外を歓迎する」「わからないと言える関係をつくる」といった姿勢が、“揺らぎのある支援関係”の入り口になるのです。

Q5. 「アートモデル」は、どんな当事者にとって“腑に落ちる”のでしょうか?

たとえば、誰かが一生懸命に支えてくれているのに、なぜか心が追いつかず「ありがとう」と言えなかったことはありませんか? あるいは、「話しても分かってもらえない気がするから、何も言わなかった」──そんな時間を過ごしてきた人もいるかもしれません。

アートモデルは、そうした“うまく言えなかった思い”や“沈黙の時間”を、大切な表現として受けとめようとします。
絵を描くように、音楽にひたるように、感情や思考がすぐに言葉にならなくても、それでも“ここにある”ということを認めてくれる。
そんな場を求めてきた人には、アートモデルはどこか懐かしく、心地よいものに感じられるはずです。

Q6. 一方で、「アートモデル」にピンとこない当事者もいますか?

もちろんです。「揺らぐ」とか「一緒に感じる」と言われても、それが何かよく分からない──そう思うことは自然なことです。
たとえば、今は毎日をなんとか乗り越えるだけで精一杯だったり、支援を“受けられるだけでもありがたい”という気持ちが強いときには、「もっと自由に」なんて言われても、かえって不安になるかもしれません。また、「自分は努力してここまで適応してきた」という人にとっては、「揺らぐこと」そのものが怖く感じられることもあるでしょう。

私たちが大切にしているのは、正解や改善を急がず、“いまのあなた”にそのままとどまる時間です。この支援のあり方を、「アートモデル」と表現しています。
だからこそ、「まだそこに行ける準備ができていない」と感じるなら、それはとても正直な反応で、責めるものではまったくありません。

Q7. では、そうした当事者とどうつながっていけばいいのでしょうか?

まずは、「制度や配慮が整っていても、なぜか苦しいことがあるよね」と、誰にでもある“心のひっかかり”を一緒に見つけてみること。
支援する側もされる側も、「うまく言えないけど、ある気がする」そんな感じを無理に説明せず、そっと抱えていてもいい──そんな関係をつくること。

そして、私たちが目指すのは、当事者と支援者が“どちらかが主導する”のではなく、“ふたりでつくっていく”関係です。こうした支援のあり方を「アートモデル」として実践しています。
だから、わからないまま、立ち止まりながら、問いながら進んでいい。
「これで合っているか分からないけど、今の気持ちはこうなんだ」と言ってもらえたとき、私たちは、そうした声にそっと応える姿勢を大切にしています。

「それで、いいです。そこから、はじまるのです。」

私が大切にしているのは「整える支援」ではなく、「一緒に揺れながら関係を編み直すこと」です。

面接室は、制度でもなく答えでもなく、“あなた”との関係から生まれていく小さなプロセスの場です。

この「揺れながら関係を編み直す」という視点は、不登校をめぐる議論にもあてはまります。

不登校についての議論は、しばしば「家庭の問題」や「本人の弱さ」に矮小化されがちです。しかし実際には、学校制度や社会の枠組みが子どもの居場所を狭めている側面があります。たとえば文春オンラインに掲載された高坂康雅氏の連載論考『不登校のあの子に起きていること』(2024〜2025年)は、その点を鋭く指摘し、「誰かが何とかしてくれる」という受け身の構図が、かえって本人の表現の機会を奪う危うさを示しています。

この論考を踏まえ、ここで私たちが重視しているのは、「アートモデル」としてのアプローチです。医療モデルや社会モデルは、診断や支援枠組みを中心に据えます。もちろんそれらは必要ですが、当面接室が目指すのは「本人が制度や環境を素材にして、自分の表現を紡ぎ出すこと」を支えることです。支援は治療でも管理でもなく、創作のプロセスに近い営みと捉えています。

面接室は子どもにとっての「創作の場」です。制度や支援はそのための絵具やキャンバスにすぎません。私たちは「何色を選ぶか」「どう配置するか」を一緒に考え、ときに視点を変えて別の素材を提示します。大切なのは「整った作品を仕上げること」ではなく、「今の自分をどう描き出すか」という試みそのものです。

例えば不登校の生徒に対して、「学校に戻る/戻らない」という二択ではなく、「自分が今日一歩進めることは何か」を探すことから始めます。それは小さな行動かもしれませんが、自分で選び取った一歩は本人の中で確かな色となり、次の表現を生み出す源になります。

保護者への支援でも同様です。「守ること」が過干渉や代弁にならないよう、子ども本人の声を中心に据えつつ、家庭という場が表現を支える土壌になるよう伴走します。親の支援意欲を否定するのではなく、子どもの表現の芽をつぶさない形に変換することが重要です。

アートモデルの実践では、支援者も「共同制作者」となります。私たちは専門的な知識や制度を素材として提供しますが、それをどう使い、どんな形にするかは子ども自身が決めていきます。ここに「依存ではなく自己調整へ」、「制度に縛られるのではなく活用する」という転換点があります。

不登校は特別な問題ではなく、社会が「学び」「生きること」をどう支えるかを問い直す現象です。当面接室では、制度や環境を素材に、子ども自身が自分の歩みを描いていけるように伴走する――それがアートモデルとしての実践であり、私たちの紹介文にふさわしいメッセージだと考えています。

【本の紹介】

こころを聞く-崎尾英子 著 大修館書店 2001年


佐藤 栄一  <経歴>

心身障害者福祉センター・児童相談所判定課非常勤を経て、旧国立療養所足利病院小児科心理療法士として20余年勤務。その後、国立小児病院心療内科へ転勤の後、国立成育医療センターこころの診療部心理療法士として開設当初から8年間勤務。2010年退職し、4月さとう成育心理面接室を開きました。
2019年 公認心理師
どんぐり発達クリニック非常勤
東京都・栃木県 スクールカウンセラー

【所属学会】

佐藤 栄一

さとう成育心理面接室
東京都文京区千駄木 【千代田線千駄木駅】
Tel:03-5832-9717

Eメール:sodan@e-satoh.com